昭和51年09月10日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」

 昨日は久富勇さんの所の宅祭りでございました。もう何十年間でしょうか。椛目時代からですから、毎年ま私が奉仕をさせて頂く訳ですれども、様々な難儀が続いておりました。もう本当にあの様々な難儀でございました。その難儀な中にやはり一家を挙げて、あぁした熱烈な信心を続けておられました。それでもやはり一回でも宅祭りを、今年は出来んと言った様な事もなく、いつの場合でもそれこそちょっとした、もう教会でも勝たないくらいな、お祭りが奉仕されております。もちろん日参はあのように、身体が不自由でありなさるのにもかかわらず、やはり続けておられます。
 私は昨日帰りまして、神様にお礼を申させて頂いておりましたら、見事な灯台が出来ておるところを頂きました。まぁだ光は入っておりませんけれども、これにもし光が入ったら、それこそまぁ世の中の指針とでも申しましょうかね、間違いのない道を指し示す光ともなるような、おかげ御徳を受けられるんだなという風に思うた。なるほど灯台足元暗しと言うのですから、自分の手元足元のところはおかげと思われない。ああいう不自由な身体であり、奥様もあんなに若くして亡くされたり。
 もう信心しよってもいっちょん良か事は無かと言う様な感じですけれども、本当に考えてみると、あれもおかげこれもおかげと、まぁ思わせて頂く様なおかげを頂いておられる。昨日もその事のために、例えば頂くと言う事。どうでもお礼のお祭りは、何月何日必ずこれはもうさせて頂くと、もうその頂くという心が一心であり強いのですから、しかも神様にお喜び頂けれるような事が焦点ですから。
 昨日私の昔の御本部参拝の事を聞いて頂いたり、勇さんのところのお話を聞いて頂いて、頂くと言う事になれば、神様がどんな算段をしてでも頂かせて九ださると。心配しておられたお祭りの費用なんかでも、本当に二日前にもう見事におかげを頂いておられる。もう昨日のお祭りでももう度々ですけれども、本当に今年のお祭りが一番有り難かったと、こう言う様な感じのお祭りでしたね。
 本当にあの私がお話の時に来てもらったんですけれども、昨日の朝お参りをして見えて、「先生今朝からあのこんなお夢を頂きました。」ただの夢かと夢物語の様なと言やもうそれまでですけれども、信心させて頂く者は本当にお夢の中にでも、このような働きを頂いておると思えば、有り難うして神様の分からん世界は一杯だけれども、神様のご都合神様の御神愛の中にあるのだと言う事を、ま感じずにはおられませんけれども。ちょうど田舎の田んぼの中にこう溝が走ってますよね。
 それがいで落ちの時には水が殆ど少なぁくなってしまいます。それの下に藻が浮いとる。その上に海老が一杯おるからその海老を網でこう掬うておるお夢であった。ところがその網がその破れておったんです。そしたら亡くなられたいわゆる国香さんですね。家内が出てきてからそれを綺麗に修繕してくれたお夢でしたと言うのです。もう本当にそれだけを聞かせて頂いただけでもです、神様の御霊様のあるのと無いのとは言われない。神様の働きを受けておられる御霊が力を受けておる。
 それだけの事を神様が夢の中にでも、知らせて下さる程しの力を御霊が受けておったと。そしてほんなら万事万端の上に、お都合お繰り合わせを頂いておる中にも、久富勇さんの信心もさることながらそうした御霊の力を、そのような中に現しておられると言う事を思わせて頂きました。有り難いね。今日のお祭り本当に御霊様も喜びであろう、また一家のまあ喜びである訳ですが。
 昨日もそんなお届けをさせて貰うて、皆さんが帰られた後に、御祈念が済んだ後に、日田の坂本さん達が夫婦で毎日日参があっとります。それにお届けが終わっておられたのに、また後から二人でこう出てみえられました。そしたらどう言う事かと思うたら、あの足の悪いあのお方が、自動車に乗って来よりなさるお方が、私の車に当てとりなさる。そしてもう一番修繕のし難い角のところを、がっぱりやられとりなさる。それでもうお父さんと顔を見合わせて話しましたと。
 今日の御理解を頂いておると、それこそ一切を頂くという心でと。頂くという心あらば触る事がないとさえ教えて頂くのですから、お父さんこれはもう有り難く頂きましょうと言うたと。しかも勇さん今日はお祭りで、あのお願いのお祭りに参ってきて、帰りがけにその車を傷つけた。どうしてこんな事がとまぁ例えば思いたいとこでしょうけれども、その相手の車が坂本さんの車であった。あちらは自動車の修繕工場であった。家で出来る。 普通ならそれには相当の修繕費なら修繕費もかかる言でしょうけれども。
 今日の御理解を頂いておるとです、頂こうという気になれば、障る事無いと仰せられるのですから、これは私共が頂かせてもらう修行だと思うて頂こうと言うのです。御理解が生きてきた。しかもそんなら勇さんの場合は、お祭りを仕えられる前の、いうならばお取り祓いとして頂く事が出来た。信心しよるから決して良い事ばかりじゃないけれども、良い事はもちろん頂くのですけれども、まぁ人間の見た目肉眼で見た目には、困った言とか難儀な事に見えるけれども、それを頂くというところに信心があるのです。
 昨日も、昨日の朝のその御理解を頂いて、ある教会の御信者さんが、こんなお届けをなさいました。うちの先生は毎月御本部へ月参りをなさるけれども、なかなかその月参りが出来なさらん。何とかして月参りがしたいと言うて、願うておられるのだけれども、なかなかその手元不如意で出来ない。そこでそれを聞かせて頂いて、そんなら先生私が毎月の御本部の月参りの旅費だけは、私がおかげを頂きましょうと言うて、毎月おかげを頂きよった。先生も喜ばれりゃ自分もまた嬉しかった。
 ところがある時に団体参拝の時に、○○さん今度は何月何日までに、旅費を納めんならんよと言われた。それを聞いた途端に今まで有り難かったものが、何か当たり前のごつ思うてござると思おうてから、もういっちょん有り難くなくなったとこう言うのです。私はそれを聞かせて頂きましてね。昨日の頂くという事の内容というものはね。本当に自分も旅費をおかげを頂く。先生も喜んで下さる。だから自分は有り難いと思いよったけれども、その有り難いと言うものは、本当なものではなかったと言う事が。
 もう無残にもその有り難いものが崩れてしまったわけですね。そら先生に毎月私がおかげ頂きますと言うとるもんだから、先生は早う旅費を今度は、お供えして貰わんとあの、団体だから間に合わんよと言わっしゃった。そしたらもうそれ以来、もうお供えはさせて頂くばってん、いっちょん有り難くなくなったのですが、今日の御理解を頂いて、如何に自分達が頂くと言うておる事の、間違っておる事に気付かせて頂いたというお届けがありました。頂くという事の答えは有り難い、しみじみと有り難いなと。
 御用をさせて頂くと言うてもです、御用させて頂くというのがです、本当にその答えは有り難いな、しみじみと感動が起こって来ると言う様な答えが出て来なければ、頂くのではない。改めて自分達が頂くといっておる、頂くと言う事のお粗末な事に気が付かせていただいて、改めさせて頂かなければ、本当に私が御本部参拝の費用は、私がおかげを頂かせて頂きますと言っておるのであるから、ただちょっとの一言で有り難いのが崩れるような言では、頂くと言う事にはならない。
 だから頂くと言う事は、そのように難しい事だと言う事でございます。昔はあの椛目の時代本気でもう美しゅうなりましょうや。これが当時の椛目の合言葉でした。どんなに問題がありましても、汚い心我情我欲があるから、問題が問題を生んでいくのである。本当にこっちが美しゅうなろうと言う気になったら、その場で問題は解決するのである。当時その美しゅうなりましょうやというのが、合言葉のように言われておったが。私は昨日その方のお届けを聞かせて頂よって思うた。
 はぁこれはどうでも合楽のこれからの合言葉はね、頂きます頂きましょう。これが私は合言葉で無からなきゃならんと思うのです。この例えばです頂きます頂きましょうの合言葉が、もし本当に今申しましたような内容で出来てくるならばです、ほんなら勇さんが宅祭りを奉仕されるのに、もう絶対どんな事があっても頂きますという、いわばいき方をなさるところからです。
 それこそいつの間に積み上げていっておるか分からない、いうならば人の世の光にも世の光にもなろうかと言う様な、人に指針をあやまたせない、生き方にならせて頂くような灯台が出来上がっておるようにです。これに光が入ったときは私は生神だと思う。私共が本当な意味において一切をです頂きます、頂きましょうと言う合言葉を持って、貫いていくおかげを頂くならば、それこそそれが生神であります。
 今日は皆さんここんところをね、生神とはここに神が生まれる言であってと。心の中に本当に有り難いという心が生まれる。その有り難いと言う心が生神だ。それが四六時中、何時も自分の心のなかに有り難いという心が、いうなら頂けてくる。昨日から頂きます様に頂きますと言う事の答えは、有り難いという答えが出なければならんと言うのですから。先ずその頂きますが前提であるということが分かりますですね。
 そして自分がさせて頂きますとか、こうして頂きますとかというてもね、本当の頂きますという内容になっていないならば、その頂きますもまた検討させて貰うて、本当の真に頂きますを言えれる私にならせて頂く精進こそが、生神への精進だと言う事になります。私の願う所私のいよいよ求めて行く所、合楽の生神様はどこまでも、神様都々逸を歌わせ賜うという神様であります。人間ですから生身を持っておりますから。
 昨日私は勇さんの所で少し頂き過ぎてからもう、お腹がパンパンするごと頂いた。まぁ人間ちゃ汚い貪欲てあんなもんでしょうね。もう家内がそばでたまがってしもうとるもん。「あぁたもうそげん頂いてから」ち言ってその言やせんけども、そんな顔で私を見よったばってん。とにかく頂けるからさっさと頂いて、帰りがけもうずう苦しいて応えんもん。けれども昨日の御理解を頂いておりますからね。
それこそ神様ずう苦しゅうなるごと今日は頂きましたと言う事に、お礼を申させて貰いましたら、何か知らんけど目頭が熱うなりました。本当ねついこの頃までは食べようと思うても、一碗のお粥さえ食べかねておったお前が、それこそずう苦しゅうなるぐらいに食べれれるようにおかげを頂いた、しかも親先生のためと言うて、もうそれこそ山海の珍味が一杯用意してあった。もうとうとう家内と半分づつ頂いた頂きませんからね。それでやっぱり二人で残しちゃいかんけんと言うて、また私がそれを頂いてしもうた。
 そしたらずう苦しいぐらいになった。食べ過ぎたと言うたら私はおかげは頂かん。かえっていわゆる胃を悪くしたり、腸を悪くしたりする事になるでしょう。頂くという心あらば、例えば人間ですから失敗をして、貪欲な心が出て自分の好きなものがありゃ、ついそれに手が出る。そしてそれこそその頂く時は美味しいけれども、その後にずう苦しゅうして応えんぐらいになった時にですずう苦しいぐらいに。頂きましたと神様にお礼を申し上げるときに有り難いものが湧いてくる。そういう頂きます。
 昨日の御理解の中には、例えば夫婦喧嘩でもさせて頂きましたと言う事になれば、おかげと言う事を皆さんに聞いて頂きましたよね。食べ過ぎたり飲み過ぎたりだけの言じゃありません。様々な上にです私共は人間ですから、生身を持っておりますから、そう言う事になりますけれども、そういう時には頂くという心を追求して、頂きますと言う事になるならば身体にも障らぬ。そしてむしろ神様が喜んで下さるこれは私の場合。
 もう一生例えばお粥さん一碗に、もしそれにお漬物でもあるならば、もう一生両親やら子供達に、腹一杯のものが頂かせられるおかげが頂けたら、私はお粥一食でお漬物一采ででもです、もう一生でもいとわないと思うた時代があります。子供やら親達にね、腹いっぱい食べさせられるおかげを頂いたら、私は一碗のお粥でも良い。そういう思いをした事がついこの頃ですから。
 私がそれこそ食べ過ぎるくらいに、沢山なご馳走を頂ける様になったと言う事を、神様が喜んで下さらない筈がない。もう神様今日はあんまり嬉しかもんのありましたから食べ過ぎました。もうずう苦しゅうなるくらいに頂きました。神様がそれを喜んで下さる、その神様の感動が私の心に響いてくる。そして目頭が熱うなるような有り難さを感じました。なるほどこれならばさわらんと言う事でございます。合楽の神様はいうならば、神様都々逸を歌わせ賜うという。
 別に白髪を生やしたそして食べ物でも、まぁ精進に精進を重ねて生神を目指すとそういうものではなくて、好きなもんがありゃ食べ過ぎる様な中にあっての生神である。けれどもその生神様はどういう食べ過ぎた、例えば昨日私が頂くと言う事を聞いて頂きましたのは、御祈念中に何かもうらんものを、川にこう捨てにいっておるとこを頂いたんです。はぁこら川に捨てるかなと思ったら、川に捨てずに後ろの方へぽんとこう投げやるところを頂いたんです。
 だから昨日の御理解になった訳です。前に捨てておればもうそれは、捨てた事になります。けれども後ろにしたと言う事はです、それが例えばあのう大地を肥やす肥しなら肥しになると致しましょうかね。するとそれを生かす事になります。もう捨てるようなものでも生かす頂き方が、頂くと言う事だと言う事です。お粗末御無礼がありますけれども、そのお粗末御無礼な事に気が付いたら。
 昨日研修の時に皆んなに聞いて貰うたのですけれどもね、頂くという事の内容が非常に深く広く、昨日は頂いたんだけれども、ある教会の先生と修行生の話。先生が大変好きな大変大事にしておられた、何か器かなんかを持っておられた。それをお掃除をしよってから、そこの修行生が取り落として割ってしもうた。そん時にその修行生が親先生ところ出てから、「先生が大事にしておられるあの器をです、今日は取り落として割らせて頂きました」って言うた。
 そしたら「頂いたつならどういうこつも出来んな」と言うて師匠が言うたという話です。「先生どうも済みませんでした、あれば割りました。」「お前がろくそなかけんそげんして割る。」とこうなって来る訳です。だから頂きますと言う事には、怒りもされんと言う事があるち言う事が分かりますね。人間だから不調法がありますよ。けれども割らせて頂きました。頂きましたには神様はもう責めようがない。
 怒られようがないという程しに、頂くと言う事は素晴らしい事です。その頂きますの徹底がです、生神を目指す事だと言う事であります。みんなもその通りのおかげが受けられる、と仰せられる生神とは、しかもほんなら合楽ではです、神様都々逸を歌わせ賜うと言う様な神様を目指す事です。飲んだらちっと酔狂の出るような事もあろう、歌の一つも出るだろう。いうならば見苦しいような事もあるかも知れん。
 けれどもそのなかに生神が生き生きとして、生神の働きをして下さると言う事はね、頂きました頂きますという、内容が備わって来ると言う事でございます。私は善隣会という新興宗教がこの近所にあります。そこでの事を聞かせて頂いたんですけれども、あちらではこのまぁこういう会合があって、先生がお話されると皆が手を上げて、上げます上げますというそうです。もうそれこそ熱狂して上げます上げますと言うそうです。
 私はその上げますの内容は分からない、いわばまぁ捧げますという意味かも知れません。私は昨日気付かせて頂きましたけれども、これからの合楽の合言葉。それは頂きますです頂きましょう。そして頂きます頂きましょうと言うておる、その頂きますが又は頂きましょうがです、本当に有り難いと言う答えが出てくるほどしの、有り難いものかなんかを検討して信心を進めていくならば、確かに生神への道へ繋がると確信致します。
   どうぞ。